(1)エジソンとウエスティングハウスは送電損失の問題にどう取り組んだか?
ウエスティングハウスはエジソンとは異なり、もともと自分が開発した製品を製造・販売することによって電力事業を起こそうとしていたわけではない。
手に入れることの出来る特許権を買い取り、優秀な技術者を雇って、実用的な改良品を作って売り出すのが彼の商法であった。
ウエスティングハウスが電気の分野に乗り出したきっかけは、彼の弟の紹介で、電気技師のスタンリーから直流の自己調節式発電機を買ったことに始まる。エジソンの発電機は負荷に応じて発電機からの電流を手動調節する必要があった。さもなければ、ある一つの電球を消したとき、点灯している他の電球にその部分の大きな電流が流れ、電気装置の故障の原因になるから手動で調節していたのである。エジソンの欠点を補うスタンリーの発電機を使えば商業上で優位に立てるのではないかと当初考えていた。たまたま、ロンドンの技術専門誌「エンジニアリング」で、ロンドンの発明博覧会に出品された交流システムの呼び物の一つにゴラールとギブスによる誘導コイル、すなわち変圧器があることを知った。これが使えるのは交流だけであるが消費地での降圧が可能であることから、さっそく1885年の夏、ウエスティングハウスは、ゴラールとギブスの変圧器を注文し、アメリカ国内での特許権を5万ドルで確保した。
エジソンにしても、ウエスティングハウスにしても、直流送電システムの大きな欠点が低圧送電線における送電損失の電力コストを大きくしてしまうことを十分承知していたのである。
電力を安く長距離輸送するには、高電圧にする必要があったが、高電圧そのままでは出力が高すぎ危険が伴うので、一般家庭や事務所の白熱電球には向かなかったのである。
この改善策として、直流による送電をおこなっていたエジソンは、三線配電システムと呼ばれる方法や蓄電池による方法を考案した。蓄電池による方法とは、1000V以上で直流発電機から取り出した直流をかなりの距離を送電した後に、サブステーションと呼ばれる直列につながれた蓄電池群に給電する。ここで電池は充電された後、発電機側から切り離され、配電網に適した低い電圧にするために並列につなぎかえるという方法をとったのである。なお、ロンドンのチェルシ−電気供給会社は1928年にイギリス全体に電力規格が導入されて、システムを交流に変換するまで、約40年間にわたって、この蓄電池による方法を送配電システムの一部として使っていた。
一方、ウエスティングハウスは、ゴラールとギブスの変圧器が中央発電所での使用に適しているかどうか、破格の金額に相当する契約条件を約束して、スタンリーに依頼し判断させることにした。スタンリーは改良の必要があると判断し、1886年初め一軒の工場を手に入れ、古い蒸気機関を修繕し、ジーメンスの交流発電機を備え付けて、一人の助手を雇って、新しい変圧器の設計・製作に着手した。やがて、彼の交流による送電システムは完成し、1886年春には規則正しい運転を開始した。彼の交流変圧器による中央発電ステーションは、アメリカで最初のものとしてマサチューセッツ州グレート・バーリントンに設置され、地域の家々や商店・事務所あるいは医院・郵便局などの照明用電球に電力を供給した。その規模は、25馬力の蒸気機関、白熱電球25個から50個をまかなう変圧器を使い、発電機出力電圧を3000Vとして、ニレの老木に絶縁体を取り付けて導線を張り、村の中心まで4000フィートの送電回路を構成し、500Vに下げて配電した。
交流送電時代の始まりを告げるこの実績により、ウエスティングハウスは、スタンリーのシステムは市販できると確信した。その後のウエスティングハウスによる変圧器システムの製造と販売はめざましいものだった。1887年にこの会社が保有していた中央発電ステーションの総容量は、16燭光の白熱電球は13万4千個にも上った。さらにウエスティングハウスは1888年ニューヨーク州バッファローに交流を発電・配電する初の商業用中央発電所をオープンした。電圧は1000Vで送られ、消費者には50Vで届けられたために電力は遠方まで安く送ることができ、顧客は安全で使用に適した電圧で利用できた。また、電力の供給を受けるために、わざわざ中央発電所の半径数マイル以内に住む必要もなくなった。
(2)なぜ、エジソンは直流送電に固執したのか?
当然のことながら、1880年代後半になってウエスティングハウス・システムの成功は、順調に進んできたエジソンの事業経営に大きな不安を及ぼすようになった。エジソン自身は相変わらず、直流のほうが交流より優れていると信じ、前に述べたような方法で送電損失の改善に努力したり、真剣に直流用の変圧器の開発に挑んでいたりした。しかし、ウエスティングハウス社はまもなく電力事業で完全にリードを奪うことになっていくが、そうやすやすと電力産業の覇者の座につくことはできなかった。
エジソンは、それまでアメリカの発明家の英雄としての世界的な顔をもっており、彼自身、誇りと信頼をぜひとも守らなければならない心境にあったにちがいない。このことが、直流ビジネスに邁進してきた彼を頑なにさせたことは想像できる。エジソンは彼の人格と立派な業績に水を差すような不順な方法で、交流送電の普及に歯止めをかける態度を示してくるのである。例えば、一つは、上院議員に働きかけて、危険性を理由に電圧を300V以下に規制する法案を通過させようとしたり、また交流による電気椅子による処刑を利用して、交流の商業的利用の不適正を訴えたり、懸命に自分の事業に有利になるような働きかけをした。
エジソンにとって、交流を利用して長距離送電を行うことも可能だったはずである。ではなぜ、彼は徐々に交流の優れた特性に気付きながら取り入れることを拒んだのだろうか。企業経営にはこうしたセオリーがある。それは「既存の企業は手遅れになるまで、新たな競合商品の価値に気が付かないことがよくあるということである。」例をあげれば、ガス会社は忍び寄る電気の存在価値に気が付かず、鉄道会社は自動車の存在に、タイプライターはパソコンの接近を無視しているということである。エジソンもこの轍を踏んだといえるかもしれない。