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社団法人日本電気技術者協会 電気技術解説講座 文字サイズ変更ヘルプ
Presented by Electric Engineer's Association
電気事業の幕開け(2)直流送電から交流送電へ 東京電気技術高等専修学校 講師 福田 務

ウエスティングハウスが誘導コイルすなわち変圧器の存在を知りこれが使えるのは交流だけであるが、消費地での降圧が可能であることから、1886年彼の交流送電が開始され交流送電システムの開始となった。また、初期の電気料金算定用メータのについても説明する。

01.電力事業の幕開けと電力量の測定

(1)エジソンとウエスティングハウスは送電損失の問題にどう取り組んだか?

  ウエスティングハウスはエジソンとは異なり、もともと自分が開発した製品を製造・販売することによって電力事業を起こそうとしていたわけではない。
  手に入れることの出来る特許権を買い取り、優秀な技術者を雇って、実用的な改良品を作って売り出すのが彼の商法であった。
  ウエスティングハウスが電気の分野に乗り出したきっかけは、彼の弟の紹介で、電気技師のスタンリーから直流の自己調節式発電機を買ったことに始まる。エジソンの発電機は負荷に応じて発電機からの電流を手動調節する必要があった。さもなければ、ある一つの電球を消したとき、点灯している他の電球にその部分の大きな電流が流れ、電気装置の故障の原因になるから手動で調節していたのである。エジソンの欠点を補うスタンリーの発電機を使えば商業上で優位に立てるのではないかと当初考えていた。たまたま、ロンドンの技術専門誌「エンジニアリング」で、ロンドンの発明博覧会に出品された交流システムの呼び物の一つにゴラールとギブスによる誘導コイル、すなわち変圧器があることを知った。これが使えるのは交流だけであるが消費地での降圧が可能であることから、さっそく1885年の夏、ウエスティングハウスは、ゴラールとギブスの変圧器を注文し、アメリカ国内での特許権を5万ドルで確保した。
  エジソンにしても、ウエスティングハウスにしても、直流送電システムの大きな欠点が低圧送電線における送電損失の電力コストを大きくしてしまうことを十分承知していたのである。
  電力を安く長距離輸送するには、高電圧にする必要があったが、高電圧そのままでは出力が高すぎ危険が伴うので、一般家庭や事務所の白熱電球には向かなかったのである。
  この改善策として、直流による送電をおこなっていたエジソンは、三線配電システムと呼ばれる方法や蓄電池による方法を考案した。蓄電池による方法とは、1000V以上で直流発電機から取り出した直流をかなりの距離を送電した後に、サブステーションと呼ばれる直列につながれた蓄電池群に給電する。ここで電池は充電された後、発電機側から切り離され、配電網に適した低い電圧にするために並列につなぎかえるという方法をとったのである。なお、ロンドンのチェルシ−電気供給会社は1928年にイギリス全体に電力規格が導入されて、システムを交流に変換するまで、約40年間にわたって、この蓄電池による方法を送配電システムの一部として使っていた。
  一方、ウエスティングハウスは、ゴラールとギブスの変圧器が中央発電所での使用に適しているかどうか、破格の金額に相当する契約条件を約束して、スタンリーに依頼し判断させることにした。スタンリーは改良の必要があると判断し、1886年初め一軒の工場を手に入れ、古い蒸気機関を修繕し、ジーメンスの交流発電機を備え付けて、一人の助手を雇って、新しい変圧器の設計・製作に着手した。やがて、彼の交流による送電システムは完成し、1886年春には規則正しい運転を開始した。彼の交流変圧器による中央発電ステーションは、アメリカで最初のものとしてマサチューセッツ州グレート・バーリントンに設置され、地域の家々や商店・事務所あるいは医院・郵便局などの照明用電球に電力を供給した。その規模は、25馬力の蒸気機関、白熱電球25個から50個をまかなう変圧器を使い、発電機出力電圧を3000Vとして、ニレの老木に絶縁体を取り付けて導線を張り、村の中心まで4000フィートの送電回路を構成し、500Vに下げて配電した。
  交流送電時代の始まりを告げるこの実績により、ウエスティングハウスは、スタンリーのシステムは市販できると確信した。その後のウエスティングハウスによる変圧器システムの製造と販売はめざましいものだった。1887年にこの会社が保有していた中央発電ステーションの総容量は、16燭光の白熱電球は13万4千個にも上った。さらにウエスティングハウスは1888年ニューヨーク州バッファローに交流を発電・配電する初の商業用中央発電所をオープンした。電圧は1000Vで送られ、消費者には50Vで届けられたために電力は遠方まで安く送ることができ、顧客は安全で使用に適した電圧で利用できた。また、電力の供給を受けるために、わざわざ中央発電所の半径数マイル以内に住む必要もなくなった。

(2)なぜ、エジソンは直流送電に固執したのか?

  当然のことながら、1880年代後半になってウエスティングハウス・システムの成功は、順調に進んできたエジソンの事業経営に大きな不安を及ぼすようになった。エジソン自身は相変わらず、直流のほうが交流より優れていると信じ、前に述べたような方法で送電損失の改善に努力したり、真剣に直流用の変圧器の開発に挑んでいたりした。しかし、ウエスティングハウス社はまもなく電力事業で完全にリードを奪うことになっていくが、そうやすやすと電力産業の覇者の座につくことはできなかった。
  エジソンは、それまでアメリカの発明家の英雄としての世界的な顔をもっており、彼自身、誇りと信頼をぜひとも守らなければならない心境にあったにちがいない。このことが、直流ビジネスに邁進してきた彼を頑なにさせたことは想像できる。エジソンは彼の人格と立派な業績に水を差すような不順な方法で、交流送電の普及に歯止めをかける態度を示してくるのである。例えば、一つは、上院議員に働きかけて、危険性を理由に電圧を300V以下に規制する法案を通過させようとしたり、また交流による電気椅子による処刑を利用して、交流の商業的利用の不適正を訴えたり、懸命に自分の事業に有利になるような働きかけをした。
  エジソンにとって、交流を利用して長距離送電を行うことも可能だったはずである。ではなぜ、彼は徐々に交流の優れた特性に気付きながら取り入れることを拒んだのだろうか。企業経営にはこうしたセオリーがある。それは「既存の企業は手遅れになるまで、新たな競合商品の価値に気が付かないことがよくあるということである。」例をあげれば、ガス会社は忍び寄る電気の存在価値に気が付かず、鉄道会社は自動車の存在に、タイプライターはパソコンの接近を無視しているということである。エジソンもこの轍を踏んだといえるかもしれない。


02.電気料金徴収ではエジソンが先覚者

(1)定額制のウエスティングハウスと従量制のエジソンの違い

 エジソンとの電力事業の勝者、ウエスティングハウスの交流システムにも大きな欠陥が二つあったのである。一つは電気料金を適切に計測するメータがなかったこと、もう一つは機械類を動かす交流のモータがなかったことである。
 特に電気事業で収入源となる電気料金を測るメータのないことは、事業拡大のためのマイナス要素であった。メータがないために、ウエスティングハウスは定額制、つまり使用する需要家の電灯の数に応じて均一料金を請求するしかなかった。消費電力に基づく請求でなかったため、使用者側はめったに電気を消さず、つけっ放しにしておく傾向があった。このため、中央発電所の負担はかなり重くなっていた。
 一方、エジソンは商業ベースの照明事業を目指していたため、電力の取り引き、現代でいう電力量計(当時は電量計と呼んでいた)の研究ではウエスティングハウスの上をいっていた。エジソンは、メンロパークにある研究所の化学実験装置により、ファラデーの電気分解の原理に基づいた発想で、電気の使用量を重量に換算して求める方法を採用していた。その原理は第1図に示すようなものである。すなわち、硫酸亜鉛を満たしたガラス容器内には二枚の亜鉛板が浸してある。電気が流れると、一枚の電極板からは亜鉛が硫酸亜鉛溶液の中に溶け出し、この溶けた亜鉛がもう一枚の亜鉛板に付着する。(ファラデーの法則)
 そして、月に一度この亜鉛板を取り出して、亜鉛板に付着した亜鉛の重量を測定して使用した電力量が分かる仕組みであった。
 第1図には二つのガラス容器がある。第1の容器の電流の1/3が、第2の容器に流れるように組み立てられている。月に1回、第1の容器を検量する。この重さを測るとすると、第2の容器は3倍だけもつことになる。第1の容器の付着量と比較することによって、自己チェックができる構造になっている。
 また、下部にある電球とサーモスタットは、周囲温度が低いとき溶液が凍結しないように加熱する装置である。このように電気分解の原理が電力量の測定に使えるのも直流方式であったからといえる。精度は1.5%程度であったが、お客から見ると不満が残った。それは使った電気量が目で見られないことで、エジソン電気会社が電極板を持ち帰って重さを測ってから電気料金の請求書がくることへの不信感があった。顧客は請求書を信頼するしかないという欠陥も有していた。
 しかし、電気料金の面では、従量制を採用していたエジソンは、定額制のウエスティングハウスをリードしていたことになる。やがてウエスティングハウスも1888年8月に交流用のメータが導入されると、電気使用量は5割近く激減したのである。つまり、出力は半分に削減でき、利益は変わらないことになった。それはまた、同じ中央発電所で2倍の顧客に給電すれば、利益を2倍に増やせることにもつながったのである。
 電力事業が始まったときに最も必要なものは電力量計、すなわちエネルギーメータであった。このメータは一種の計算機であり、瞬時電力を時間について積分する仕組みをもたなければいけないからそう簡単にはできない。そのため、エジソンがとりあえず考案したのは、いま述べた電気分解を利用したものであった。1885年頃から、電動機のトルクを電流に比例するようにした構造のメータが用いられるようになり、その回転数の総和が指示されるようなメータになった。例えば、第2図に示すフェランティのアンペア・アワー・メータはこのタイプである。その主要部は、水銀に浮かべた導体円板を回転させるものでマーキュリーメータと呼ばれ、今日の電力量計の原形を思わせる構造である。

(2)エジソンは何をもとに電気料金を決めたか?

 エジソンはパールストリート発電所の電力事業を確実に成功するために電気料金の設定をどうすべきか考えた。電気の需要がどのぐらい見込めるかを判断するため、彼は、まず一般家庭に良く使われていたガスの使用状態を把握するためアンケート調査をした。そのなかで、ガス利用者のほとんどが電気にも同じ金額を払っても良いという考えのあることを知り、この意見に従って、電気の値段をガス料金のそれに近い値に設定した。
 だが、顧客に電気をガス料金とあまり違わない料金で供給したとすると、開設当初では収入の2倍程度の経費がかかってしまうはずであった。しかし、技術が進歩し、負荷がもっと増加して規則的な電力供給ができれば、経費は減るだろうと予測した。そして、コストを抑えるために、既存のガスパイプとバーナを改造して電線を通した。電気照明がガスにとって代わるためには、ガスの人気を支える特長をできるだけ生かす必要があった。まず危険(感電)がないこと、そのためにエジソンは、銅の導線すべてに絶縁処理を施し、地下に埋設した。また、電気火災の懸念を払拭するため、ガスをやめて電気照明に切り換える建物に対して、保険料の値上げはしないことを火災保険業界に保証させた。
 ニューヨーク市はすべての送電線を地下に埋設する条例を定めたため、今日に至るまで、治安はともかくも美観は保たれている。