このページにおける、サイト内の位置情報は以下です。


社団法人日本電気技術者協会 電気技術解説講座 文字サイズ変更ヘルプ
Presented by Electric Engineer's Association
電気事業の幕開け(1)直流送電によるアーク灯から白熱灯への供給 東京電気技術高等専修学校 講師 福田 務

1870年代後半のアーク灯、1880年代初頭からの白熱電灯へ、電気照明への電力配給システムがアメリカ全土そして世界に普及した。しかし、電源は直流発電機による低圧配電であり、送電損失が大きく送電範囲は近距離であり、又末端での照度低下が起こる状況であった。その後ウエスティングハウスが協力なライバルとして登場した。

01.電力事業の画期的幕開け

(1)ガス灯を追い抜いたアーク灯にも弱点があった

 

 1880年初頭から電力事業は、白熱電球がアーク灯にとって代わるという大きな照明技術の進歩をテコにして、画期的な飛躍めざしてスタートした。
 それ以前、1870年代には個人住宅と商業施設のほとんどはガス灯が使われていた。だが、すばやい進歩によって、まもなく電気照明のアーク灯が、わずかであるがガス業界のシェアを奪うようになった。
 アーク灯そのものは、1815年イギリスのデービィが発見したものであり、彼が王立協会でボルタ電池2000個を接続してアークを発生したことによって生まれたものである。アーク灯は2本の炭素フィラメント間を電流がすばやく流れることでジグザグの光を発生するものであるが、当時の人たちにとっては得体の知れない怪物が火を吐くようなイメージをもったかもしれない。

 電気を扱う発明家のほとんどはアーク灯の改良に没頭するようになり、やがて電気供給システムも商業ベースで運営されるようになりアーク灯照明の未来は明るく思えた。町の街路灯は、まだガス灯が多かったが、アーク灯のほうがガス灯よりも明るく強い光を放つので、公園や町の通り道などの広い場所を照らすのには適していた。また、犯罪予防にも効果があると考えられていた。
 しかしながら、19世紀前半までは、電池が電源であったことや、電極として十分な純度と硬度をもつ炭素が得にくく、急速な改良は進まなかったが、一時期はフランスを中心に使われ始め、利用の盛んな時代もあった。アーク灯がさらに広く一般的な照明方法として普及するためには、アーク灯自体の固有の欠陥だけではなく、どうしても電力供給技術の問題を解決しなければならなかった。当時の発電方式は、一つひとつのエネルギー負荷としてのアーク灯にそれぞれ個別に発電機が接続されていたのである。すなわち、電力の発生源から送電そして配電までを技術的に統一する面では、まだ未開発であった。
 工業を発展させるための電力技術にとって欠かせないことは、電力の集中生産と消費が容易に結びつくシステムを作り上げることが必要であり、このため、個々のアーク灯がそれぞれ発電機を必要とする使用形態は、この目的に添わなかったのである。
 一方、アーク灯の照明としての根本的な欠陥が明らかにされる頃、アメリカのファーマー、ロシアのロディギン、イギリスのスワンやアメリカのエジソン等が白熱電球の発明に取りかかっていた。

(2) エジソンは、なぜアーク灯の改良に取組まなかったか ?

 このなかで、エジソンの取組み方はほかの発明家とは違っていた。彼は、照明の商業化を念頭においていたため、アーク灯の改良の努力は無駄な作業だと確信していた。その理由はガス産業の研究から、照明市場の需要の90%は個人住宅や商業施設向けに使われることを見抜いており、アーク灯の利点はあるものの、消費者はランプを一個一個点けたり消したりしたがるから、アーク灯ではそれができないことがわかっていたのである。
 エジソンの目的は照明を普及させるためには、ガス産業を手本にした電気照明システムを作りあげることであった。ガス灯以上に明るく、酸素も使わず、火事の危険もなく、壁も汚さない照明を目指していたのである。
 エジソンは1881年にパリで催された万国電気博覧会で、炭化された竹をフィラメントに使った白熱電球を発表し、大きな成果をあげた。この博覧会はほかの国際産業博覧会に比べれば展示規模は小さかったけれども、ヨーロッパの科学者、技術者、特に金融資本家や企業家の注意を電灯に引きつけた。


 当時のイギリスの雑誌『エンジニアリング』はその4ヶ月にわたる博覧会の様子を「まことに華々しいもので、技術や科学関係の参観者だけでなく、一般大衆にとっても大きな魅力を与えた。・・・電気技術は万博で、科学と機械の元気な子として生まれた。」と報じられていた。この博覧会では、全部で少なくとも50種類のアーク灯と白熱電球が展示されており、エジソンの電球のほかにもスワンやマキシム、ロディギンなどのものも含まれていた。
 しかし、エジソンの白熱電球システムは特に熱狂的な人気で迎えられ、その展示はヨーロッパの人々にエジソンのシステムがこの分野では群を抜いていることを納得させた。彼はシャンゼリゼ広場に展示場を設置し、16燭光の電球1200個を灯すことのできるエジソン200馬力発電機がこの広場を圧倒した。そのため企業家たちは、このシステムを製造・販売する独占権を欲しがるようになった。
 例えば、ドイツエジソン社の創立者ラーテナウは機械技術者であったが、この博覧会を見て、エジソンの特許を手に入れようと決意を固めてドイツに戻ってきた。また、同じくドイツの若い技術者ミラーも生まれ故郷のミュンヘンに戻ると、ここで万国電気博覧会を催すように周囲に働きかけた。このように、パリ万博で目標をつかんだ若い技術者たちと、刺激を受けた投資家たちがパリから各地へ流れ出していった。

 



02.エジソンは、なぜパールストリートを選んだのか

(1) エジソンが目論む商業資本の調達

 しかし、白熱電球をすぐさまアーク灯の代わりに使うには、まだいくつかの問題を抱えていた。
 一つには、アーク灯に比べれば効率の悪く、十分な照度を得るためには数多くの電球を必要とする白熱電球を広く売るためには、どうしてもアーク灯とは異なる新しい発電システムを生み出す必要があったのである。すなわち、白熱電球の出現は、電球そのものの改良以上に、発電から送電を経て、数多くの電球に電力を供給する一貫性をもったシステムを確立する必要に迫られていたのである。
 白熱電球は発明したが、システムは発明しなかったうってつけの例がイギリスのスワンである。スワンは発明家=企業家としてはエジソンに及ぶべくもないが、実用的な炭素フィラメント電球を発明したと主張する権利はエジソンにひけをとるものではない。
 パリ万博で見るように、多くの白熱電灯の発明家のなかで、エジソンが特にすぐれていた点は、彼の思想の中心が単なる電球に置かれていたのではなく、発電所から送電、配電した電力を各需要家や家庭にまで電灯を利用することのできる電力事業のためのネットワークを想定していたことである。
 「電球は光を与える、発電機は電流を生む。しかし、これらはそれだけが必要ではなく、電球は発電機の電流に順応しなければならないし、発電機は電球が必要とする電流を与えるような性格をもつように組み立てなければならない。」これは、彼自身のシステムに対する思想を語る言葉の一部である。
 かくして1882年9月4日、ニューヨークのパールストリートの発電所が操業を開始し、やがて6000個から7000個の電球を点灯するようになった。
 このとき、エジソンの発電所は、町の中心に置かれていたので「中央ステーション」となずけられた。中央ステーションから電気を供給するメリットは、電気の光を大衆に分け与えるという大きな利点があったし、パールストリートを選んだのも、金融街の中心であり「ここに位置すれば電気料金の費用を負担できるレストランや商店に、客を引き寄せる手段としてこの新しい光が使われるだろう。また、このステーションはウォール街にあるから金融資本家や大衆投資家の注意を引くことだろうし、電力事業拡大のために、彼らはほかの場所にエジソンの発電所を建設する資金を提供して欲しい人たちであるから」そんな読みがあって、この地に建設されたのである。いかなる発明も、商業的な成功のためには資金調達と積極的なマーケティングが重要であることを、エジソンは、以前の電報と電話の開発の経験から思い知らされていたのである。
 この経験が生き、ウォール街の一流銀行の後ろ盾を得て、エジソン・エレクトリック・ライト社を立ち上げることができ、株式資本で30万ドルの融資を受け、新規公開株として株式市場に上場することができた。この頃、エジソンを巡るうわさは投資家の注意を引き、わずかな公開株に買い注文が殺到して、ある時点でエジソン株は、一株3500ドルという驚異的な値にまで跳ね上がった。しかし、低圧で、送電損失が大きいという弱点を抱えていたため、送電範囲が近距離とはいっても末端にいけばいくほど電圧降下が大きくなるため、電球は暗くなってしまっていたのである。この問題は直流のもつ根本的欠陥であるが、エジソンと所属するメンローパーク研究所の訓練されたスタッフは送電損失の解決をめぐって新たな挑戦が始まることになる。

(2) 化学実験所の設置の目的は電気料金測定装置の研究

 この研究所は当時、世界最良の電気実験室の一つであったが、そればかりでなくエジソンは高い費用をかけて、化学実験所としての設備も整えた。この化学実験所は、のちに電気事業体が電灯にたいして電気料金徴収の測定装置の制作に役立てられる。
 エジソンが発明家=企業家として活躍したのは、1870年代後半から1880年代前半にかけて、電灯システムの発明や導入と建設を手がけていた時代であった。彼は、研究や開発を手伝う優秀なスタッフ以外にも、企業家としての彼の関心や能力を補ってくれるような人たちと深い人脈をもっていた。たとえば、法律や金融関係で経験を積んだ人たちが企業組織や金融知識には特別な才能のないエジソンの弱点を補ってくれ、電力事業を助けていたのである。
 1880年代エジソンの電気照明、電力配給システムはアメリカ全土、そして世界に普及した。大規模発電所はニューヨーク市の4ヶ所のほか、デトロイト、ニューオーリンズ、セントポール、シカゴ、フィラデルフィア、そしてブルックリンにもできた。ヨーロッパではロンドン、ベルリン、ミラノの各都市に建設された。しかし、電力事業の王者としてのエジソンの地位は安泰ではなかったのである。

 それは、同じニューヨーク州の押しの強い企業家ウエスティングハウスがエジソンの強力なライバルとして登場してきたからである。機械工場経営者の息子として育ったウエスティングハウスは、それまでに列車の軌道切替え装置や圧縮空気を動力とするブレーキ装置などを発明し、ヨーロッパ向けの製造工場を建てたり、イギリスで製造と販売の経験を積んでいた男である。